成嶋恒治先生の思い出


平成15年3月11日

東京水産大学名誉教授    長谷川西涯先生より

成嶋恒治先生が茨城県龍ヶ崎市立小学校において5年生のひと組を受け持たれて、教育者としての第一歩を踏み出されたのは昭和22年4月のことでした。しかし、繰り返し実りを重ねる筈のキャリアーは、この年度の末を以って唐突に終わりを告げることになります。校長が校門前の池に叩き込まれてしまったからです。犯人は、もちろん我らが成嶋恒治先生でした。学年末の、今流に言えば打ち上げ会の席で教育論の議論が高じ、お酒の勢いもあって表に出ろという騒ぎになったのか、或いはその帰り掛けの仕業ででも有ったのか、今となっては確かめようも有りませんが、いずれにせよ、鼻柱の太い、大きく四角く脂ぎって肉厚の悪代官面をした校長は未だ水も温まぬ池の中を泳ぎまわることになってしまいました。

「いや、もちろんずっと先生やるつもりだったよ。」と後に述懐されてますが「校長ぶん投げちゃって学校にいるわけにはいかないと思ったから、、、」と、直情の恒治先生が直ちに辞表を出されたのは当然のことです。「今度叔父の仕事を手伝わなければならなくなったので、3月いっぱいで上京することになった。」当時、そのようにだけ聞かされた僕達一同は涙をこらえることが出来ませんでしたし、それは、恒治先生ご本人にとっても同じことでした。

  中央右が校長先生 /  中央左が成嶋先生 /  前列左から3人目が長谷川教授     

 一人前に成長した教え子たちが、後年、先生のお宅を訪問した際に、その所行が白状されたのです。クラスで一番チビだった私を見て「お前でも大きくなるだな」などとからっかておられた先生は、しばらくしてぽっつりと言い足されました。「H校長も偉い人だったよ。辞めることなんかないから、としきりに引き止めてくれた。」

 しかし、「一旦、出した辞表は撤回しないと頑張っちゃった。」と、少し苦笑を含んだような、或いは自らの仕業に改めて憮然と仕直して居られるような、そんな表情をされていました。

 お陰で恒治先生の教育者としての勤めは生涯ただこの1年間限りの関わりという世にも貴重な出会いの刻々が演出されていたのだということになってしまったわけです。

 もちろん、だだひとりの先生とのただ1年間に限られた関わりというものは、考えてみれば、学校事業に属する、すべての教師と先生達に共通の関わりの仕方でもあって、そこに何ひとつ珍しい要素は無いはずです。しかし、六十余名の唯ひとクラスの生徒達の前に立った唯ひとりの先生は他ならぬ成嶋恒治先生でした。

 昭和22年と言えばまだ終戦も間もない頃です。占領軍は僕らの習っていた教科書の諸処を墨で丁寧に塗りつぶさせました。いっさいの勇ましいものを子供達の目から覆い隠してしまおうとしていたのです。前年度までは男女別であったクラスも恒治先生の受け持ちからは共学に変わりました。「腕立て伏せの回数は連帯一だ。諸君のお父さんなんかには負けないぞ」が自慢話で有った軍隊帰りの厳つい先生の姿もいつの間にか消えていました。御名御璽(ぎょめいぎょじ)を奉戴する場であった講堂を占領した朝鮮の合唱団から 「若者よ、、、」などという聞き慣れない歌を聞かされて異様な思いもさせられたのです。

 カーキ色で襟の詰まった、当時国民服と称した装いをして居られることが多く、軽く握り拳を作り、いくらかがに股の特徴のある様子で長い廊下を歩いて居られましたが、すっきりとした細身の体格は、子供達の遊び道具だった樫の棒を取り上げてたちまち手軽な折檻用具に利用してしまった、軍隊帰りの先生のように恐ろしい存在ではありませんでした。実は、この先生も怪我をさせないように細心の注意を払いながら実に巧みにビシリビシリと子供達を打ち据える演技をしていただけなのですが、成嶋先生には少しも恐ろしいところが有りませんでした。と言って格別に優しい先生だったというわけでもありません。黒板の前に一同を後ろ向きに並ばせておいて片端からお尻をぶっ叩く、或いは総ビンタを食らわす、などは大いにお得意だったのです。それでも生徒達にとって少しも「怖い」先生ではなかったのは、要するに、先生が新しく、生徒が新しく、時代が新しく、教室には緊張が有り、その緊張を成嶋先生は自由な若々しさそのものとして、いわば素裸のまま発揮しておいでだったからでしょう。

 成嶋先生がしっかりとした授業計画をお持ちであったとは到底思えません。諸処方々が真っ黒に沈黙してしまった昔の教科書の代わりにあてがわれたのは、およそ教科書と呼ぶには相応しくない  粗末なざら紙を仮綴じにしたパンフレットにすぎませんでした。

 こうした状況は、しかし、成嶋先生と僕達にとってはむしろ歓迎すべきものであったのかもしれません。授業計画に従う代わりに僕達の仕事は、「自由研究」と称された、ある種の遊びに変貌しました。これもまたおそらくは占領軍伝来のアメリカ式メソッドのひとつであったのでしょう。いくつかの版に分かれた子供達がそれぞれにテーマを選んで研究した成果を発表する、その理念に肯定できる部分が無くはなっかたとしても実際そこに広がっていたのはガラガラポンとすべてが崩壊して全く新たにやり直しているという、いわばカラリと晴れた空しさの気分に過ぎなかったと思います。

とはいえ、自宅の焼け残りの書棚や三県下一という自慢話を繰り返し聞かされた小学校の図書館をあさって、やたらと難しい文献を見つけ出してきては大きなハトロン紙に書き写して「発表」するのは楽しい作業とは言えました。

恒治先生は、そうした子供達のごとにまとめられた机の間を、のそのそと歩き廻ることで時間をつぶしておられたようでした。

恒治先生は、もとはと言えば画業を目指されていたそうで、生徒達を引き連れて写生に出られる機会も多かったのです。子供達が創造的だなどと言うのは大体において大人からする思い込みに過ぎず、子供は子供で実に因習的なものですが、僕達にとっての写生もおよそそんな風な作業に過ぎませんでした。木の葉と言えばギザギザと横線を重ねて描くものと僕は思い込んで僕の親友のN君の木の葉は、いつでも丸くこんもりと塗りつぶされるのが決まりでした。それでも、まだ護岸工事に遠避けられず、水に手の届いた破竹川の土手に肩並べてパレット広げている僕達の後ろから覗き込んで「こんな描き方もあるだな」などと友人の若い先生と話しながら、子供達それぞれの「決まり事」を楽しんで居られた姿も目に浮かびます。まだ駄目、まだ駄目、と何度も厳しい指摘を受けて筆の竦(すく)んでしまった女の子などもありましたが、やがて子供自信が納得して腕を伸ばしてくるための種をしっかりと蒔かれていたことは後に確認されたことでした。

友人の、この若いH先生も「源平盛衰記」から宇治川の先陣争いの話などを講談師のように鮮やかにして下さったものですが、臨時教師だったのでしょう、後に、旧制の水戸高校を受験するために中途で辞めることになりました、と絣(かすり)に袴姿でご挨拶になりました。

後年事故に遭われて片足を切断され、悲惨な生活を送られた、と恒治先生が回顧しておられたことを想い出します。

一方、恒治先生の「お話」と言えば、子供達の記憶から決して消え去らないのが「青の洞門」の逸話でした。菊池寛の「恩讐の彼方に」が材料であったのでしょう。中央に集めた児童用の机に仁王立ちになった先生が床に座って見上げる子供達に熱弁を振るわれるのです。羨ましげな聴衆が他のクラスからも詰めかけて僕らは鼻を高くしたものでした。

珍しく先生に歌を聞かせて頂いたことが一度だけあります。音楽室の片隅のピアノで「筑波峰の、、、」と、いわば弾き語りなのですが、大きな羽のように振り上げた両手を叩き下ろし踏み鳴らすという、まるでピアノの上で踊り跳ねているような激しいものでした。

その頃、小説を読んで脚本化するという練習が国語の時間に設けて有りました。僕は自宅の書棚から辛うじて色刷り印刷を取り戻したばかりの薄っぺらな「少年倶楽部」を教室に持ち込んで、これはと見当を付けた少年小説を相手に苦心をしていました。例によって背後から覗き込んでおられた先生が「これは面白いから、、」と言って、途中まで仕上げていた僕の脚本に手を入れて完成して下さることになりました。

ガリ版刷りに出来上がった台本を見ると最初のト書きに「中央にエスが一つおいてある」とありました。疎開流れの僕にはそれがひどく可笑しくて忘れられず、女化の病院に白髪頭を揃えてお見舞いに伺った時にあらためて申し上げると「何度もくりかえしていると、イかエかどっちかわからなくなっちゃうだ。俳句の修行でさんざん叩き直されたよ」と苦笑しておいででした。先生は疑いもなく竜ヶ崎のお生まれだったのです。

この脚本は、その年の秋の学芸会での当たり狂言となりました。戦災により親を失って浮浪児となった少年と幸運にも浮浪児にならずに済んだ旧友との友情と確執を描いた、いわば際物でしたが、当時の僕達が演じるにはまさにピッタリと言ってよい世界でした。

浮浪児Aの役を振られたK君は「当日は、着替えたりして、いい格好をして来るな。いつものままの姿で来い」と言って髪の薄くなった現在に至っても憤慨が止みません。実際、恒治先生に率いられた当時の僕達のほとんどが浮浪児さながらのボロ姿で飛び回っていたことを彷彿とさせる写真も残されています。竜ヶ崎を代表する実業家の一人になったK君は、「私の今日有るのは成嶋先生のあの言葉だった」といっているのですから教育の効果というものは一筋縄では計れないもののようです。

ただひたすら情熱一本槍のように見えて、生徒との接触のすべての場面でちょっとした節回しと言った味付けを本能的に心得ておられたのが恒治先生だったのです。その味付けはしばしば大いに通俗的でもあって、「当たり狂言」のさわりには古レコードでトロイメライのメロディーを流して「後ろの方では上級生の女の子達が泣きながら見ていたぞ」と、これは先生の勝利宣言でした。

休みを利用して土浦に出かけた子供達があろう事か集団で万引き事件をおこしてしまったことが有ります。ひそしそと戦果を自慢し合う声が明くる日の教室には聞こえていました。悪い事をしてみたい年頃の幼い英雄気取りに過ぎなかったのですが、いずれにせよ事は直ぐさま大人達の耳に入り、児童用の椅子を教室の真ん中に持ち出し、どっかと腰を下ろして拡げた両膝のこぶしをにぎりしめた恒治先生の両眼から、悔し涙がみるみる溢れ出ることになってしまいました。クラスの一同をオールビンタで折檻した後に恒治先生は黒板に書き付けて申されました。「1月21日。この日のことを決して忘れるな。」

すべては、先生が弱冠二十歳の四季の出来事なのです。

先生が去れた後、当たり狂言のお陰ですっかり演劇熱の高まってしまった僕達は六年生になっても同じように芝居をしたいと考えました。新しい担任の先生が演劇に詳しい余所の先生を紹介して下さって、数人の同級生と共に訪ねてみましたが、当然の事ながら失望ばかりが残りました。僕達の求めていたのは芝居ではなく、むしろ恒治先生との出会いの再上演であったからでしょう。僕達は再び日常生活の中を漂流し続けるほか有りませんでした。

二十年近くたってから市内の旅籠屋の薄暗い奥座敷で、ただ一度だけクラス会が開かれました。「私の教え子はお前らだけなんだ。」そう仰有って一同に短冊を頂きました。

最後になった病院の廊下で先生の車椅子を押しながら「今度、句集を出版されるときには、是非跋文を書かせて下さい。」とお願いしました。「父さん、良かったね」と昔の恒治先生とは大違いに丸っこい頬に太い身体の御子息が申されました。告別式に駆けつけると、「こんなことに、、、」と会釈をされながらぐっと涙をこらえるようにされました。私も自らの白髪頭を意識しながら御子息を抱きしめて心から泣きたいように感じもしたのです。